養育院から東京都健康長寿医療センターへ

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150年の歴史を紹介する展示 養育院・渋沢記念コーナー

東京都健康長寿医療センターの発足 2009年

2009(平成21)年、東京都老人医療センター(元 養育院附属病院)と東京都老人総合研究所という2つの施設が経営統合して、地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターが発足しました。

その後、敷地内に新施設が建てられ、 2013(平成25)年に移転して現在に至ります。 

病院と研究所を一体化させ、高齢者医療及び老年学・老年医学研究の拠点として、高齢者の特性に合わせた医療の確立、高齢者医療・介護の研究と専門的な医療従事者・研究者の育成に取り組んでいます。

東京都健康長寿医療センターへの道のり 

東京都健康長寿医療センターのルーツは、1872(明治5)年に東京に設立された救貧施設「養育院」です。

2022年は養育院創立の150周年にあたります。

養育院は、江戸幕府の救貧基金「七分積金(しちぶつみきん)を管理する会議所(営繕会議所)に対して当時の東京府知事大久保一翁(いちおう)が救貧策の立案を働きかけたことにより、常設施設として事業が始まりました。

大久保一翁府知事が実業家に転身した渋沢栄一を会議所の運営メンバーに加えたことがきっかけで、渋沢栄一は養育院の運営に関わることとなりました。

渋沢栄一は1876(明治9)年に養育院の運営代表者である養育院事務長に就任、職員制度改定で1879(明治12)年に養育院初代院長となりました。その後、1931(昭和6)年に亡くなるまで約50年間養育院院長を務めました。

明治初めの東京は、幕府瓦解・江戸経済崩壊で極貧生活に陥った住民がたくさんいました。西洋式の産業が立ち上がったあとも、日露戦争や第一次大戦後の不景気により東京の生活困窮者の数は増える一方でした。貧困は子どもにも影響が及び、孤児や不良児童もたいへん多い状況でした。

養育院は、幼児から老人までさまざまな事情で生活を維持できなくなった人々を保護し、教育や医療を提供する施設として設立された救貧施設です。渋沢栄一は院長として養育院を維持しました。

その長年にわたる養育院事業の功績を讃え、渋沢栄一の福祉思想を後世に伝える碑として、東京市民有志の寄付により1925(大正14)年に養育院板橋本院に渋沢栄一の銅像が建立されました。

約100年前に建てられた銅像は、現在も東京都健康長寿医療センターの敷地に残され、公園として整備されています。

太平洋戦争では養育院も空襲で被災しました。そのため終戦直後は軍の建物を使って事業を再開しました。

終戦直後は多くの戦災孤児を収容することとなりました。

戦後の復興が進むと、事業内容は救貧施設から主に高齢者と知的障害児を対象とした福祉施設に移行しました。

1970年代には、寝たきり老人が社会問題としてクローズアップされるようになり、東京都の1部局として位置づけられていた養育院も高齢者の福祉政策に向けて取り組みを発展させることとなりました。

養育院板橋本院の敷地には、養育院専用病院が都民一般の高齢者を対象に移行した養育院付属病院(のちの東京都老人医療センター)、高齢者の健康や生活全般の課題に関して自然科学・社会科学両面から研究を進める東京都老人総合研究所、福祉事業として養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、板橋ナーシングホームといった、高齢者のための医療・研究・福祉の拠点が作られました。

1997(平成9)年、都庁の改組で養育院・福祉局・衛生局の高齢者関係の部門が統合され、東京都高齢者施策推進室が発足しました。2000(平成12)年には東京都養育院条例が廃止され、都庁から養育院という名称の組織は無くなりました。その後、高齢者施策推進室と福祉局の統合、健康局と病院経営本部設置、福祉局と健康局の統合を経て、養育院の福祉事業は現在の福祉保健局に受け継がれています。

養育院の付属施設であった東京都老人総合研究所は、財団法人東京都老人総合研究所、財団法人東京都高齢者研究・福祉振興財団東京都老人総合研究所を経て、東京都老人医療センター(旧養育院附属病院)と経営統合し現在の地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターとなりました。

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日本におけるGeriatrics(ジェリアトリクス=老年医学)の開拓

高齢者専門医療ジェリアトリクス(老年医学・老年病学)は、高齢者特有の病気についての原因解明、予防、診断、治療を目的とした医学の一分野です。

一般に医療は、消化器科・循環器科のように、体の各部分(臓器など)別に区分されています。しかし、特定の臓器だけみる治療は高齢者の病気にはなじみません。全身の臓器の状態、精神状態、生活上の必要動作への障害など、からだ丸ごと全体を調整するのが老年医学の特徴です。

子ども特有の健康問題に対しては、内科から小児科が分離独立しています。同様に、高齢者に特有の健康問題に対しては独立した分野「老年医学」が必要です。

そのことを80年以上も前に主張し、浴風会病院と東京大学で老年医学の研究と指導を進めたのが尼子富士郎です。

1972(昭和47)年、養育院で新設された附属病院は高齢者専門病院としてスタートしました。そこには村上元孝(初代院長)をはじめ、尼子富士郎の下で老年医学を学んだ専門家が全国から集められ、高齢者対象の医療・医学研究の新拠点となりました。

「健康寿命を保つにはどうしたらよいか」「健康問題があってもよりよく人生を生きるためにどのようなことが有効か」・・・超高齢社会が到来した現在も、尼子富士郎がめざした老年医学の確立・発展の営みは東京都健康長寿医療センターに脈々と受け継がれています。

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